とある女性の一生

私が住む南島原も、連日20℃をこえる日が続き本格的に夏の雰囲気が強くなってきました。夏は私が好きな季節ですので、毎日テンションが高く、色々な冒険に外出したくなります。

さて今回は、以前FMひまわり 87.6MHzの生放送でも取り上げました、島原半島に点在する”記録のない八十八ヶ所”について書こうと思います。

この記録の無い八十八ヶ所との出会いは、「西有家新四国八十八ヶ所」を探していた時のこと。八十八ヶ所のお大師様の脇に、とても難しい文字の刻まれた石碑がいくつか建てられていました。初めは全く興味がなかった為、そのままにしていたのですが、ある日、世界遺産候補の原城に行った時のこと。

有名な天草四郎時貞の像の右側。みなさんは気が付いていましたでしょうか。この石碑「福徳円満大満潮大神 島原の乱戦没者慰霊島原半島八十八ヶ所平和塔 第一番札所」

原城という南島原の歴史に深く関係のある場所に建立されたこの石碑は、綺麗に手入れがされており、造花ではありますが初めて花が添えられているものを見ました。裏には「建立者 信者一同」とあり多くの方が関わっている物なのだという事を初めて感じた場所でした。

その事がきっかけとなり、図書館などで様々な文献をあさりましたが”一切”記録などが残っていませんでした。

そこで、島原半島の歴史などに詳しい方数名にお会いし、お話をお伺いしたのですが皆様同様に、この石碑の存在は知っていても詳しい内容まではご存知ありませんでした。現在はお話をお伺いさせていただいた方皆様が、ありそうな場所や見つけた場合にご連絡をくださり、本当に力強い協力をいただいております!

さてここは、とりあえずこの石碑を探し出す事に集中して捜索するという方向にシフトチェンジし、個人的にありそうな場所を見つけると、道無き道でも入り込んで撮影し続けましたので、いくつか紹介をしたいと思います。

①北串の観音堂裏

※写真左隅に見えますか??

この場所は、車で近くまで行く事が出来るのですが、車道が物凄く狭いので車での訪問はやめた方が良いです。

②小田山神社裏

小田山神社という場所、ご存知ですか?塔ノ坂から雲仙方面に登った先のT路を左折し口之津方面へ降りる道の左側にある、巨石が非常に美しい立派な神社です。その拝殿の裏手にひっそりと。この場所自体が美しい場所なのでオススメです。

③見岳・大払洞窟入り口

こちらも何度も紹介しております、西有家の秘境。見岳・大払洞入り口。この場所は非常に急峻な場所を登りますのである程度の装備が必要です。

そんな感じで、ゆっくりですが一つ一つ新たな石碑を見つけていた際、有家町にある熊野神社参道の入り口にある石碑を撮影していた時の事。。

90歳を超えているであろうおじいさんから声をかけられました。

「そん花は綺麗かやろー?持っていけば?」

おじいさまは、私が花を撮影していたと思っていたようですがこの石碑を探しているという事を説明させていただきました。その話を聞いたおじいさまから、興味深いお話を聞く事が出来ました。

”今から約40年前のある日、一人の女性が訪ねて来た。その女性は島原の乱で戦死した方の供養をしたいので、この場所に石碑を建てたい。協力してくれないか”

という申し出があったそうです。おじいさまは、あまりに熱心なその女性の説明に協力を快諾し、熊野神社脇にこの石碑を建立したそうです。この日、

”建立者は女性”

という重要なヒントに出会う事が出来、大きく一歩前進しました。

その日から数ヶ月後、相変わらずこの石碑を探していた時。口之津にあります「口之津歴史民族資料館」の森館長とお話をしていた時の事、加津佐町にある越先の一夜大師という場所を教えていただきました。(越先の一夜大師に関しては、前回のブログ燈にて詳しく紹介しております。)

その場所にも、森館長の読み通りに石碑を発見しました。

この石碑を見つけた事がきっかけで、いくつかのヒントを得る事が出来、関係者にたどり着く事が出来ましたが、その方のご迷惑にならないよう、詳細に関しては記載いたしません。

関係者の方にお電話した時の会話の内容は、

”その名前は確かに私ですが、そのような石碑を建立した覚えも、越先という地名も知らない”

という予想外の返事が。ただ、島原の乱の供養をしていた人については、心当たりがある。という事でしたので、早速取材に急行しました。

その場所は、南島原市にある長閑な地域のお宅。その女性にお伺いしたお話は、私の予想とは大きく違った意外なものでした。

以下、この”記録の無い八十八ヶ所”についてお伺いした内容です。

”島原ノ乱戦没者慰霊 島原半島八十八ヶ所平和塔は、私の知っている人が建立したものです。その方は今から8年前に他界されました。生まれつき体が弱く、様々な病に悩まされていたその方は医術では治すことが出来ないという事を知り、神様を信仰するようになりました。様々な神様を信仰しておられましたが、後に島原ノ乱の供養が十分では無いという思いから、島原半島の全域にこの八十八ヶ所を生涯をかけて立て続けた様ですが、私共はどちらかというと反対をしておりましたので、それ以上の事は知りません。”

私が、今も探している「島原ノ乱戦没者慰霊 島原半島八十八ヶ所平和塔」は、生まれつき病に悩まされ続けた女性が、その回復を願って建立した物でした。生涯をかけたその行で何らかの功徳を得られると信じ続けた時間は、その人にとってどんな時間だったのだろうか。

地元の歴史を知るために始めた、「西有家新四国八十八ヶ所探し」その過程で知った「記録のない八十八ヶ所」それは昔、南島原に生きた”とある女性の一生”との出会いでした。

今後、何年かかるかわからないその八十八ヶ所探しを通して、その方の思いに触れてみたいと考えています。

もし、島原半島のどこかでこの石碑を見つられた方がいらっしゃいましたら、コメントをお待ちしております。

 

そして、最後に私からのプレゼントを。いつもブログの最後にある写真。今回は不思議な物にしてみました。何が不思議かわかりますか?それでは、次回のブログでお会いしましょう。